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吉村昭の「関東大震災」を読んだ。

三陸海岸津波」の克明な記録に衝撃を受けたが、今度はやはり来るべき直下型地震とはどういうものかと恐れつつ読んだ。
衝撃的内容であった。
1923年(大正12年)9月1日の「関東大震災」は、ひとくくりに20万人の犠牲者というが、100年近くも前のことで詳しくは知らなかった。
本書は、その未曾有の大震災を様々な角度での再現記録であり、まさに戦慄しながら読み進めた。

本の構成による内容

「大地震は60年ごとに起る」
大正4年11月、大正天皇即位の大礼の日に関東で大きな地震が起こり、その後群発地震が起こった。
東大教授で地震学会の第一人者の大森房吉理学博士は、その時京都の大礼の儀式に出席のため不在であった。
東京の現場にいたのは、弟子である東大助教授の今村明恒理学博士で、その地震を体験し対応をしていた。
その年は安政の大地震より60年経っており、記者からの取材では、
「今年より50年以内に大地震に遭遇し、東京の死者は10〜20万人に達するであろう」と自説を啓蒙的警鐘のつもりで発言した。
これが思わぬ大反響、大騒動となってしまった。
大森博士は、帰郷のち大騒動となったこの発言を否定し、激しく非難した。
「東京が非常の震災を被るのは平均数百年に一回、東京市の道路は広く、消防機材も改良され大災害にはならない」
と発言し、大森博士と今村博士の関係には大きな溝をつくった。


地震発生−20万の死者
地震騒動から8年後、大正12年9月1日11時58分・・・関東大震災発生!
この時、大森教授は、汎太平洋学術会議のためにオーストラリアに出かけており又も不在であった。
今村助教授は、大森主任教授の代行として東大の教室にいて、大震災に遭遇した。(この奇妙なめぐり合わせ)
以下、震災の証言が克明に記載されている。
東京、横浜の住宅はことごとく崩壊し、昼食時の時間に発生したことで、各地で火災が発生する。
水道はほとんど断水となり、消火設備の消火には役立たなかった。
もっとも凄惨な現場は、本所被服廠跡の避難広場。
逃げまどう人々は、荷車に家財を積みこの避難場所にぞくぞくと詰めかけた。
荷車は逃げ場の障害になったうえ、飛び火により燃えあがり大火災の要因となった。
ここでの生存者の証言は、生々しくまさに生き地獄の修羅場となった。
火災の強さは、大竜巻となり人も荷車も燃えあがったまま空中に吹き飛ばされていったという。
この場所に逃げ込んだ者は4万人、そのうちの3万8千人が死者となった。


第二の悲劇−人心の錯乱
東京と横浜では、火災と続く余震におびえた。
津波と富士山が噴火するなどの流言は、果てしなく湧いて、またたく間に巨大な怪物に化し、人々に恐怖を植え付けていった。
通信手段は途絶え、報道機関も壊滅したが流言風説は、人々の口から口へ伝わり、事実ではない情報が確実な情報とされ伝わっていった。
この不安心理が、当時の社会情勢、政治情勢ともからんで途轍もない妄想の怪物を生みだした。
それは「朝鮮人が来襲する!」というデマとなり、すでに井戸に毒を入れた!放火をしている!という情報が真実のように伝わる。
その要因の根源には、植民地支配により日本人には朝鮮人に対する一種の罪の意識がひそんでいたという。
それが各地に自警団を作り出し、町村の自衛のためと凶器を手に武装した集団となった。
朝鮮人来襲説は、横浜市内で発生し、東京府から地方の市町村まですさまじい速度で広がり、朝鮮人をはじめ日本人、中国人の虐殺事件を引き起こした。
「在日朝鮮同胞慰問会」の調査によると10月末までに殺害された朝鮮人は2,613名とある。
朝鮮人来襲の流言は、唯一の報道機関である新聞によっても一層広範囲に流布される結果を生んだ。
そのため政府は、戒厳令の地域を拡大しね報道に対する戒厳令措置として検閲、発禁命令もだした。
新聞報道は、重大なミスをおかしたことにより、最大の存在意義である報道の自由を失った。
政府機関は、政府の好ましくないと思われる事実を、検閲によって隠ぺいすることが可能になった。
そのような背景で起こった事件が大杉栄事件であった。
憲兵分隊長の甘粕正彦大尉とその部下による社会主義大杉栄、妻伊藤野枝、甥橘宗一の殺害事件は、政府、警察、軍がその事実をひたすらかくすことにつとめた。


復興へ
災害地には、多くの死体が遺棄されていた。残暑の厳しい季節であったので、おびただしい遺体は、急速に腐敗しはじめた。
火葬場を24時間体制にしても焼却能力は足りなくて、露天で焼却する事態となった。
避難民にとって糞尿問題も追い打ちをかけた。男も女も生死をさ迷ってきただけに羞恥心もなく随所で排泄し、異臭は市町村に漂った。
災害地の衛生状況は最悪で、赤痢が大流行し、その他、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、脳膜炎など伝染病の流行がみられた。
大震災後、避難地に集まった群衆は、上野公園に約50万人、宮城外苑に30万人等130万人に達していた。
救済するためのバラックは粗末なもので、いたるところにバラック街はたちまち汚濁にまみれ、衛生面と犯罪の多発する惨状のなかで冬を越さなければならなかった。

日本地震学の最高権威であった理学博士大森房吉は、10月4日に学術会議の洋行から帰国した。
大森博士は、9月1日シドニー地震観測所を視察しているときに、震災をその場で観測した。
帰国した時には、すでに身体は病に侵され、重篤の身であった。
かつて激しく対立した今村助教授の警告が的中し、自身の敗北はあきらかであることを認めて、今村助教授の見舞いを受け入れた。
大森博士は、自分の過失を認めながらも、地震学者としての激しい情熱を持ち続けていた。
今村博士を、自分の研究を受け継ぐ有能な人材として、震災予防調査会の幹事に推挙した。
また、病床より「後藤新平子爵に思い切った復興計画を立てるよう伝えてくれ」と進言した。
関東大震災は、その後の地震学に多くの貴重な資料をあたえた。
大森房吉を中心に樹立された地震学は、大震災によって大きく前進することとなった。
復興計画は、内相後藤新平が中心となって推し進められた。
後藤新平は、東京市長であったおりに8億円の都市改造計画を主張し、世人を驚かせた人物で、
東京の復興には40億円以上に達する大予算を組むべきだと提唱した。その金額は国家予算の3倍に当たる数字であった。
後藤の立案した計画は、余りにも理想すぎるものだと批判を受け、結局復興費は12億円に削られた。
しかし、東京の復興は着実な成果をあげた。
土地買収が困難たったが、市民も災害から守らねばならないという意識をいだき、政府の提示した安い価格で土地を提供した。
その結果、狭い道路は拡張され、新しい道路も創設された。
また、公共建物、橋梁等の耐震耐火建造もおこなわれ、公園も多数作られた。

以上が本書の要約である。
忘れてはならない大震災の体験として、長々と記載してしまった。
関東大震災の年から86年経った。
今村学説の「大震災は100年ごとにやってくる!」とすれば、もうとっくにレッドゾーンに入っている。

関東大震災 (文春文庫)

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