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『生誕100年 ジャクソン・ポロック展』 東京都国立近代美術館

エド・ハリスが監督・主演した映画『ポロック 二人だけのアトリエ』を観て以来、気になっていたアメリカ現代アートの鬼才ジャクソン・ポロック(1912-56年)の本格的な回顧展が、東京都国立近代美術館で開催されているので観に行った。
今回の展示会は、初期から晩年にいたるそれぞれの時期の代表的作品を含む約70点が出展されている。
ジャクソン・ポロックは、床に広げた大きなキャンパスに絵具をふり注いで描く「アクション・ペインティング」が強烈な印象を残すが、この回顧展の作品を眼で追うとそこまでの到達と44歳で自動車事故死するまでの苦悩と偉業を知ることができた。
回顧展では4章に別れて年代ごとに構成されている。

第1章 1930-1941年:初期 −自己を探し求めて−
ジャクソン・ポロックは、1912年に米国コロラドに生まれて、家族と西部を転々としたのち、18歳の時に画家を目指してニューヨークにやってくる。
(誕生 1941)
ニューヨークでの修行時代の絵は、暗く神秘的な風景画を描いている。
ここでネイティヴ・アメリカンの芸術やメキシコ壁画、そしてピカソキュビスムの影響を次々と受ける中で、自分の進むべき道を模索する。
抽象画に変わっていき前半と後半では明らかに色遣いも違っていく。
先住民への造形の影響が濃くなり、なんだか岡本太郎の画風とも似ている。



第2章 1942−1946年:形成期 −モダンアートへの参入−
ポロックの大きな展開時期で、ピカソ以外に、ミロやシュルレアリスムマティスなど、ヨーロッパのモダンアートを積極的に吸収し始める。
「くそっ、あいつが全部やっちまった!」とピカソの画集を床に投げつけたというエピソードがあるほど、ピカソには相当な憧れと嫉妬が渦巻いていた。

≪ブルー白鯨.1943 大原美術館≫ →
ポロックメルヴィルの「白鯨」の愛読者だったそうで、飼い犬にもエイハブと名付けたりしていたとのこと。



第3章 1947−1950年:成熟期 −革新の時−
ポロックは画面を同じようなパターンで埋め尽くす「オールオーヴァー」な構成と、床に広げたキャンバスの上に流動性の塗料を流し込む「ポーリング」の技法を融合させて、自己の代表的な様式を確立させた。
そこでは、ピカソキュビスムを基盤としたそれまでの絵画の構造を超克した、新しい次元の絵画が実現されてた。
これまでの抽象画家の絵は、ピカソやダリにしてもそこに何らかの具象化されてあるが、ポラックの絵は物の形がなくただの模様なのか無意識のイメージなのだ。
絵には上下左右もないのだが、そのタッチや色彩は見事な躍動感があり圧倒される。
ここで昔テレビで見たギャグコントを思い出した。
“ある美術館で観客が抽象画を観て「素晴らしい!傑作だ!」と絶賛している。
するとその展示会に来ていた画家本人が、展示していた絵を上下にひっくりかえして、こちらが正しいとばかり憤慨する。”
≪インディアンレッドの地の壁画.1950 テヘラン現代美術館≫
↑ 展覧会最大の目玉は、183x243.5センチの大作「インディアンレッドの地の壁画」で、ここにワンフロアに一点だけの展示されている。
この迫力と素晴らしさは実物を見ないとわからない。
これがポロックが確立した絶頂期でこの期間はたった3年間しかない。


第4章 1951−56年:後期・晩期 −苦悩の中で−
ポロックの仕事は1950年に絶頂に至ると、翌1951年には突然方向を転換する。
成熟期の網の目のような抽象的構成は捨てられ、初期や形成期に描いていたような具象的なイメージが、画面に再び現れてくる。
 ≪ナンバー11.1951 ダロス・コレクション≫
↑ 黒を基調とした具象的なイメージは、絶頂期の色彩と違って苦悩の表われともいえる。
一度は克服したアルコール依存症は再度ぶり返し、不安定な精神状況のなかで自分で運転する車により事故死してしまう。
まるでロックスターのような波乱万丈で衝撃的な生涯である。

↑ ≪カット・アウト1948-58 大原美術館
「ポーリング」の技法の絵に人の形のような抽象形がくりぬかれている。
ポロックの死後に発表された作品。
昔、この絵は大原美術館で観たのだが、こんな苦悩が込められていたと初めて知る。


抽象画とはわかりにくいものという意識があったが、ポロック展はまことにわかりやすい!
モダンアートのカリスマ・スターの回顧展であった。

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