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映画・落語・写真・ダイビングを中心としたお気楽人生ブログです。

三省堂書店で文庫本No.1の売れ行きの「三陸海岸大津波」吉村昭著を読んだ。

もともとは1970年に「海の壁−三陸沿岸大津波−」として刊行されたものが、文庫版になって改題されたものだ。
本書は、明治29年と昭和8年の三陸地震の大津波昭和35年チリ大地震津波による被害の調査と証言を記録している。
すでに話題になっているので記するまでもないのだが、3.11の東日本大震災の大津波として新たに繰り返された。
過去の証言から津波とは心底恐ろしいものでありながら、教訓として生かされず、過去の体験以上の災禍を招いてしまった。
しかも今回は、昼間であり、映像として世界中の人々が目撃してしまったところが凄い。
日本はこんな大自然の脅威の中でいままでも生きてきていた。
たまたま太平洋戦争という大きな災禍の後に大きな災害にあっていなかった。
(あえて伊勢湾台風阪神淡路大震災は局地的災害とさせてもらう)


本書にある記録や生存者の証言があまりにも生々しく、今回起こったことと一致している。
津波のなかでは、その場から逃げられたものと逃げられなかったものが生死の境目、津波はすべてを破壊して奪っていく。
津波はヨダと呼ばれ「ヨダが来た!」と怪物がやってくるように恐れられた。
前兆として、ものすごい大漁が続いた。前例もないほどのマグロや鰯など大豊漁に各漁村が沸いた。
井戸の水が濁ったり枯れた。津波が来るとき「ドーン、ドーン」と砲音のような音がしたり、青白い閃光が走るなど怪光現象も目撃された。
「天候は晴れだし、冬であるから津波はこない。」という老人たちの迷信から地震の後再び眠り込んでしまって多くの被害にあった。
津波の引き潮は、ある港では1000メートル以上もある港口まで引いて干潟と化した。
襲ってきた津波はところによって50メートルの高さを超えるものもあった。
宮古市田老町は、明治29年に死者1,859名、昭和8年に911名と二度の津波来襲で最大の被災地であった。
津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたが、住民は田老を立ち去らなかった。
昭和8年の津波の翌年から防潮堤の建設をはじめ、戦後をはさんで改良工事は続けられ、全長1345メートル(総延長は現在では2433メートル)、高さ最大海面から10メートルという類をみない大防潮堤を完成させた。
チリ津波のときは死者もなく被害もなかった。
しかし・・・今回は田老地区の防潮堤も効果なく破壊されてしまった。
今回の津波による被害は、宮古市全体では死者411名、不明490名、倒壊住宅4,680件(2011.5.7現在)
毎年昭和の大津波の発生した3月3日に避難訓練をしたばかりだという。
生き延びた子供たちの作文が掲載されているが、これからを生きる今の三陸の子供たちを思うとつらい。

明治29年大津波 死者26,360名 9,879戸
昭和8年大津波  死者2,995名 4,885戸
昭和35年チリ大地震津波 死者105名 流失家屋1,474戸
東日本大震災 死者14,877名 行方不明9,960名 避難119,656名(2011.5.7警視庁調べ)
三陸地方は更に過去にさかのぼっても地震津波とは常に見舞われていた地域であることがわかった。
想定外ではなく、原発という人災だけが想定外だったということだ。


昨日この著書のことがニュースになっていた。
戦艦武蔵」などで知られ、2006年に死去した作家吉村昭さんが40年前に発表した記録文学三陸海岸津波」が東日本大震災以降、増刷を重ねている。三陸沿岸を襲った3度の大津波を題材にした作品。妻で芥川賞作家の津村節子さん(82)=東京都三鷹市=は、増刷分の印税を被災地に寄付している。
http://www.asahi.com/national/update/0509/SEB201105090003.html
寄付した田野畑村では、津波の被害で吉村氏の寄贈した蔵書750冊はすべて流失してしまったそうである。

三陸海岸大津波 (文春文庫)

三陸海岸大津波 (文春文庫)